復職後の勤務体系についてご報告
本日、復職後の勤務体系を決めるため、会社の産業医との面談があった。
面談の結果、6/3(月)~6/7(金)までの1週間は元の環境に慣れるのを最優先し午前勤務扱いということになり、その後の勤務体系については、その1週間の様子を見てから改めて判断することになった。
さすがに復職初日からフルタイム勤務はきついので、この結果は大変ありがたかった。
この写真のお地蔵さんは、以前通勤の際に通っていた道のそば(と言ってもその道から200mくらい離れていたが)にあるお地蔵さんである。
本日の産業医との面談に行く際、この道をひさしぶりに通ってたまたま目に留まったので「復職にあたり今後大きな問題が起きませんように」という願掛けをしようと思い訪れてみた。
DMC-GF1 RAW現像
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以前から、ここにお地蔵さんがあるということは認識していたが、通勤道からは結構遠回りをしなければならなかったため、近くまで来たのは今回が初めてだ。
このお地蔵さんは畑のど真ん中にあったのだが、近くに来て初めてお地蔵さんのところにたどり着くための道がないことに気づいた。
つまり、お地蔵さんのところに行くためには、畑の中を横切らなければならない。
「おいおい、普通そこに行く道くらい用意するだろう」と内心思いながら、畑に植えてある野菜を踏まないように気をつけて近づいてみた。
遠目から見ていたときは、場所が場所なだけにてっきりほったらかしにされていると思っていたのだが、おそらく定期的に訪れて手入れをしてくれる人がいるのだろう。
お地蔵さんの周りは、きれいに片付けされていたし、頭巾の結び目もちゃんとしていて、見た目でこのお地蔵さんが大事にされていることがわかる。
個人的には、手入れがされていなくて汚れたままになっているお地蔵さんを見ると、まるでそのお地蔵さんは世間から忘れ去られた存在であるかのような感じがして悲しい気持ちになるのだが、このように大事にされているお地蔵さんを見ると、手入れをしてくれている方のお地蔵さんへの気持ちが伝わってきてすごく心が温まる。
去り際に、お地蔵さんの手入れを欠かさずしてくださっている方への感謝の意と、これからの自分の行く末がうまくいくよう、ありがたくお祈りさせてもらった。
とりあえず、今後の勤務体系は決まった。
蓋を開けてみなければ結果がわからないところはあるが、復職後の1週間は元の職場環境に慣れることを優先し、とにかく無理はしないことにした。
1ヶ月間休職していた分、あせる気持ちはある。しかし、いろんな意味でまだまだ先は長い。
今の自分がすべきことは「ゆっくり着実に前に進むこと」。くれぐれもそれを忘れないようにしよう。
補足
復職が決まったので、このエントリで「適応障害」カテゴリーの記事は終わりとします。
今後の自分の近況については「近況報告」というカテゴリーに入れますので、今後はそちらをご覧いただけると幸いです。
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自分の今の目標
休職前に通勤に使っていた自転車にひさしぶりに乗ろうとしたら、タイヤの空気が抜けてしまっていた。上記の写真でわかるだろうか?上が自分が乗る前、下が乗った後のタイヤだ。
空気入れがすぐに見つからず、探す暇もなかったので、このくらいなら空気を入れなくても大丈夫だろうと思いそのまま出かけることにした。
パンクが怖いのでさすがにスピードを出すことができなかったが、逆にそれによってあることに気づいた。
「あれ?自転車に乗るのって、こんなに心地よかったっけ?」
休職前は、自分にとって自転車は単なる移動手段であり、とにかく早く目的地に着くことだけを考えていた。そのため自転車に乗ってても別に楽しいなどと思うようなことはなかった。
それが「スピードを出せない」状況になって初めて、自転車の心地よさというものに気づくことができたので、とても新鮮に感じられた。
それだけ以前は心に余裕がなかったということだろう。たまにはゆっくり行くのもいいものだな。
今までほぼ1ヶ月間休職していたわけだが、カウンセリングの先生からも言われていたように、復職してみないことには病状が改善されたかどうかわからないため、とりあえず6/3から復職することにした。
ただ本人が本当に復職可能かどうかを判断するため、復職前に会社の産業医と面談を行う必要がある。
その面談が近々予定されていて、それによって最終判断が下されるので、今のところ6/3以降の自分の勤務体系がどうなるかは未定だ。
自分の過去の失敗を二度と繰り返さないために、今まで最大限自分を変える努力をしてきたつもりだ。
自分の中では「以前の自分とは違う」「確実に変わることができた」と思ってはいるのだが、復帰場所が以前と同じ職場であることもあり、PTSDとまではいかないが何らかのきっかけで症状が再発する可能性も否定できない。
でも、それを恐れていては前に進めない。
- 辛いときはすぐに相談すること
- 何でも1人で抱え込まないこと
- 自分の思いや考えをちゃんと他の人に伝えること
これらのことを確実に実行し、自分自身を信じてできるだけの努力をする。
それが大事だと思っている。
以前の自分は何についても、とにかくいつも急いていた。
それがタイヤの空気が抜けていたことがきっかけとなり、自転車本来の心地よさというものに気づくことができた。
いつも心の中がパンパンになっていてはだめなんだ。このタイヤのように心にも余裕を持つことが必要なんだ。
自分の今の目標は「余計なことは考えず、あせらず余裕を持ってゆっくり着実に前に進むこと」
まずはそれだけを考えることにしよう。
最後に、今の自分に向けて一番適した名言を見つけたので、ここに引用して終わりとしたい。
"I walk slowly, but I never walk backward." by Abraham Lincoln
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歳を重ねることによってしか得られないもの
いつから付いていた傷なのだろう。
ふとドアノブを見てみると、こんなにも傷だらけになっていたことに気づいた。
もちろん開け閉めの際に触るので、ある程度傷が付くのはしようがないし、そもそも自宅は築13年も経っているので、このくらいの傷がついていてもおかしくはないのだが、それにしてもこのメッキのはげよう。何かをぶつけてしまったかのようだ。
何かぶつけたことあったっけ?
基本的に手のひらでしか触らないので、こんなにメッキがはげるほどの強い衝撃を与えた記憶がないのだが、このままではさすがに見た目が悪い。
でもメッキだから再塗装で直せるものでもないし、新しいものに交換するしかないな・・・。
人間は誰しもが歳をとる。それは絶対に抗うことが出来ない運命だ。
しかし歳を重ねることによってしか得られないものがある。
それが人生経験といわれるもの。
歳を重ねるとは、自分の人生経験を文字どおり重ねることであり、これは自分が若い時には絶対に得ることができないものだ。
自分は、今回の一連の流れによって人生経験を得て、やっと自分自身を変えることができたが、以前のエントリにも書いたが、この大切なことをもっと若いうちから知っておけばよかった、とは思わなかった。
もちろん知っておいた方が良いことに間違いはないが、仮にタイムマシンがあったとして、現在の自分が若い頃の自分に「こういう結果になるから人間関係を大事にしておけよ」と言えたとしても、当時の自分にはまったく効果はなかっただろう。
人間というものは、自分と違う価値観に対しては認めることはあっても、自分からそうしようと思わない限り、受け入れることはしない。
「人間関係を大事にする」という価値観がなかった当時の自分には、現在の自分の価値観を受け入れることなど絶対にできなかっただろう。受け入れることができなければ、当然変わることもできない。
それを今回の経験によって、やっと自分の価値観を変えることができた。
確かに遅すぎたかもしれないが、それは後悔すべきことではない。
この経験を無駄にせず、今後に生かすこと。
これこそが今後の自分にとって重要なことだ。
そう考えると、このドアノブの傷もドアノブ人生(?)を重ねてきた結果で、しようがないのではなく必要なことだったのかもしれない。「傷も味のうち」と言うしな。
そう自分を納得させ、ドアノブを交換することや、その傷を直すこともしないことにした。
#決して「お金がもったいない」とか「交換するのがめんどくさい」とか思ったわけではないことを、最後に強調しておく。
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みんなに本当にありがとう
自分は内弁慶に外地蔵だった
まず、前回のエントリで「利害関係がない相手とは、まったく普通に振舞うことができた」と書いたが、それに対して補足しておきたい。
「自分はわがままで自分の思い通りにならないと気が済まない」のだが、そんな自分でも唯一わがままがでない相手がいた。
それが利害関係がない(もっと正確に言うと付き合いがあまりない)相手だった。例えば、近所の人や、店の店員さん、同じ職場でも自分とは違う部署でたまにしか交流がない人なんかがそうだ。
そういった人に対しては、むしろこちらから気を使って相手のために動いたり、自分に対して何かしてもらった時は、やたら感謝したりしていたので、相手からすれば「とてもいい人」にしか見えなかったと思う。
なぜ、そういった人たちにはわがままがでなかったのか?理由はとても簡単だ。
(大変失礼な言い方になるが)自分の思い通りにならない相手だからだ。
自分がわがままを言っても通らないとわかっているから、そういう相手に対してだけはわがままがでなかった。
それに対して、自分の両親、妻など身近な存在で、言えばなんでも言うことを聞いてくれる(と思っている)相手に対してだけ、わがままがでた。
まさに内弁慶に外地蔵そのものだった。
ここで、もう一つ補足しておきたい。
前回のエントリで、「友達や同僚に対してもわがままがでていた」と書いたが、身内でないにも関わらず、なぜわがままがでたのか?これにも理由がある。
友達や同僚と付き合いが長くなると、ある程度こちらの言い分も通るようになるのはわかると思う。
だから最初は地蔵のようにおとなしくとも、付き合いが長くなってくると、とたんに弁慶状態になっていた。
とにかく自分は「内弁慶に外地蔵」だった。
人として尊敬されない自分
最初に「人として尊敬できない」と言ってくれたのは、妻だった。
自分勝手で、わがままで、人に対して感謝の気持ちすら持たず、やってもらうのが当たり前と思っている。
そんな自分だったのだから当然だ。
誰がそんな人間に対して尊敬なぞするものか。
しかし、内弁慶状態だった自分は、そんな言葉にはまったく聞く耳を持たなかった。
それどころか、あろうことかストレスのはけ口にまでしてしまった。
下手をすれば(こんなことを自分が書くべきではないが)妻に自殺されててもおかしくなかった。
そこまで妻を精神的に追い詰めてしまっていた。
妻は強い。自分なんかよりもずっと。
情けないことに、自分がこんな状態になってやっと、当時の妻がとても強かったことを心の底から理解することができた。
自分にとっては必要な通り道だった
今なら、なぜ妻から「人として尊敬できない」と言われたのか、十分にわかる。
ここにたどり着くまでに、みんなにたくさん迷惑をかけ、大きな犠牲を払い、結果的にものすごく遠回りをしてしまった。
でも自分にとっては必要な通り道だった。この道を通ってきたからこそ、やっと自分が変われたのだから。
みんなに本当にありがとう
ブログを始める前までは、誰が見ているかわからないネット上に個人的な事情を晒すなんて考えもしなかった。ましてや、自分の悪いところ、弱いところを晒すなんて、到底ありえないと思っていた。
でもブログによって自分を変えたいのエントリあたりから、確実にブログに対する考えが変わってきて、
ブログになら自分の気持ちを書ける理由以降は、自分の悪いところ、弱いところを全部さらけ出せるようになった。
そのおかげで、自分と本当に向き合い見つめなおすことができて、自分がここまで変わることができた。
最初は、単なる気分転換的な感じで始めたブログだったが、こんなにまで自分が変わるきっかけを作ってくれるとは、夢にも思っていなかった。
カウンセリングの先生のほんの一言がなかったら、ブログは始めていなかった。
ブログを始めてから、初めて自分と本当に向き合い見つめなおすことができて、自分がここまで変わることができた。
ブログのコメントで、b_nenkoさんからの励ましもすごくうれしかった。
そして、こんなにだめな人間である自分であることを最初に指摘してくれた、唯一の大切な家族である妻へ。
あの時、気づいてあげられなくてごめんな。そして、気づくきっかけを作ってくれたことに感謝するよ。
今なら心の底から言える。
みんなに本当にありがとう。
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自分の短所を意識し克服するよう努力する
休職してもう20日が経とうとしている。
本来ならば自分がやらなければならなかった仕事を、無理やり他の方に振ってしまうことになってしまい、非常に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
薬(リボトリール)によって、以前よりは気持ちが穏やかになったのは実感できるのだが、未だに気分が落ち込むことがあったりして、そんな時は「まだ改善されていないのかなぁ」とかなりへこむ・・・。
自分は小さい頃から「わがまま」だった
話は、自分の幼少時代に遡る。
自分は小さい頃からなんでも自分の好きなようにならないと気が済まないタイプ、つまり「わがまま」だった。
それによって両親のみならず、小さい頃から友達にも迷惑をかけることがたくさんあった。
そんな自分だったから、友達も自然に自分と距離を置くようになってしまったし、自分から自分の本音をさらけ出せなかったため、なんでも話せるような友達、つまり親友も作ることができなかった。
たちが悪いことに、人間というものはずっと同じ環境に置かれていると良くも悪くもそれに慣れてしまうもので、自分の場合は小さい頃から1人だったためそれに慣れてしまい、自分にとっては「1人でいるのが当たり前で普通」になってしまった。
この辺りが、以前のエントリ「診断結果について」で、先生から「幼少の頃から培われてきた性格」と指摘された部分にあたるものだ
ただし友達を作ることや他人と接することが、まったく嫌いだったわけではない。
さすがに親友を作ることは出来なかったが、気の合う友達と遊ぶのはやっぱり楽しかったし、そういう友達とはずっと一緒にいられたらいいなと、本当にそう思っていた。
それに、自分と「利害関係がない相手*1」とは、まったく普通に振舞うことができた。
つまり外面だけはものすごく良かった。
ただ一つだけ問題があったのは、元々1人でいるのが平気な性格だったため他人から必要以上に自分に干渉されることが嫌いだったことだ。
そのため、ちょっとでも自分が気に入らないと、せっかく友達が自分を誘ってくれたのにも関わらず、自分からその誘いを断ってしまうことも多々あった。
そんな性格のまま社会人へ
入社当時は、右も左もわからない状態なので、無我夢中で仕事をこなすので精一杯で、自分のわがままが出る余裕などまったくなかった。
しかし、社会人生活にも慣れてきて、ある程度意見を言えるような立場になったとたんに、自分のわがままなところが出るようになってきた。
会社の同僚や仲間も最初のうちは気にしなかったと思うが、さすがに何度もそういうことが繰り返され、しかも自分からも積極的に相手と接しようとしなかったこともあって、同僚たちは徐々に自分から距離を置くようになった。まさに小さいころの友達の時のように・・・。
いつしか自分は周りを省みることのない井の中の蛙となり、その結末は今までの「適応障害」のカテゴリで書いてきたとおりだ。
自分の短所を意識し克服するよう努力すること
人から言われてすぐ直るようなものは短所ではない。
人の短所というものはそんな簡単に直らない。ゆえに常に自分の短所を意識し克服するよう努力すること。
上記の言葉については、こちらのエントリ
・「短所を直し、長所を見直せ|freeml」の一読をお勧めする - たまには部屋をかたづけようよ
・そのエントリで紹介させていただいたdreclu氏が書かれたブログ
短所を直し、長所を見直せ|freeml
をご覧ください。なお自分が書いたエントリは単にまとめただけで本筋ではありません。
dreclu氏が書かれたブログをぜひご参照ください。
自分の短所を克服する努力とはなにか?
「高いプライド」に関しては、プライドを持って、かっこ悪いことをしようで書いたとおり。
「わがまま」に関しては、まだ答えは出尽くしてはいないが、一つだけはっきり言えることは「相手を想う気持ちを持つ」ことだと思う。
今までわがままゆえに相手に対して「思いやり」「謙虚さ」「感謝」「尊敬」など、人として当たり前の気持ちを持つことが出来ていなかった。
「自分の短所はわがままなことだ」という意識を常に持ち、少しでも短所を克服していこうと思う。
最後に
今までも何度も書いてきていることですが、もしひょんなきっかけでこのエントリを読んでもらえて、少しでも心当たりがあって悩んでいる方がいたとしたならば(こんな自分が言うのもおこがましいですが)今からでも遅くはないです。自分と同じ轍を踏まないよう、ちょっとでも考えてもらえるきっかけになっていただけたら幸いです。
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*1:この件については次エントリ「みんなに本当にありがとう」で述べたい
家族に話すことの大切さ
このエントリは自分一人のプライバシーだけでは済まない内容なので、書くべきかどうか非常に悩んだ。
しかし、どうしても伝えたかったことでもあるので意を決して書く。
そのくらい強い想いであるということが、ほんの少しでも届いてくれることを信じて。
ストレス要因になりうるものにはいろんなものがあるが、ほとんどは自分一人では解決できないことの方が多い。
そんなとき大抵の人ならば、家族や親友、同僚など気の置けない仲間に話を聞いてもらったりするだろうが、大概は話をしても解決できなく、結局は愚痴を言うだけで終わってしまうこともある。
「話したって解決しないことはわかっているよ。でも誰かに話さなきゃ気が済まないんだよ」
そうやって大抵の人は人に話すことによって(仮に本人は意図していなくとも)心のストレスを発散する術を持っている。
「話す」ということ。
それは生物ゆえの特権、言い換えると本能だ。人間に限らず、動物ですら鳴き声で相手とコミュニケーションを取っている。
しかし、自分にはそれが出来なかった。
ストレスがたまっているにも関わらず高いプライドのせいで、人に相談すること、弱音を見せることを一切しなかった。
そのことで徐々に精神的に追いつめられていったわけだが、ストレスを吐き出す術を持たなかった自分のせいで一番被害を被ったのは、他でもない大切な家族である妻だった。
辛いとき、苦しいときこそ、最初に話すべき相手が妻であるのに、自分のプライドのせいで何も話さなかった。本当なら妻だって、唯一の家族である自分にそういった相談をたくさんしたかったことだろう。
以前のエントリで「いつもどおりかっこいい自分を演じて、表面上はまったく問題ないように見せていた」と書いたが、いつもそんな状態で自分から何も話さないものだから、妻からはいつも「悩みなんてないんでしょ」と言われていた。
そのため当然の結果として、妻からは”そんな相手に相談しても無駄”という空気が出来てしまった。
しかし、話はこれだけでは終わらない。
話すことによってストレスを吐き出す術を持たない自分によって、ストレスのはけ口は全て妻に向けられることとなった。ちょっとしたことで怒鳴り散らしたり、物をぶつけたり、それはもうひどいものだった。
もっと早くつらいことや、苦しいことを話しあってさえいれば、自分ばかりでなく、妻も精神的に追い詰められることは絶対になかった。
実は、妻にはまだ直接謝ることが出来ていない。
今さら過去のことを言っても遅いのだが、本当に妻には迷惑をかけた。どんなに謝っても謝りきれないし、今さら謝っても無駄であることも、わかりきっている。
謝ることによって、許してもらおうとか、許してもらえるなどとは微塵も思っていない。
でも、こんな文章ではなく直接言葉で謝らなければならない。その決意をこめてこのエントリを書いた。
最後になるが、今さらになって思う。
もっと早く気づくべきだった。家族に話すことの大切さを。
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プライドを持って、かっこ悪いことをしよう
プライドを捨てる必要はない。
”自分はプライドが高い。かっこ悪いことが大嫌い”そんな自分だったために弱音を吐くことができず、うつ状態になり休職に至ってしまった。その反省をこめてこのエントリを書こうと思う。
誰しもがプライドを持っていると思う。
自分の場合は、特にプライドが高いために、唯一の身内にすら弱音を吐くようなことは一切しなかった。その結果、ストレスを全部一人で抱え込むことになり精神的に限界まで追い込まれてしまった。
同じことを繰り返さないために「プライドが高い」ということに対して、どう対処すればいいか、自分なりの考えをまとめてみた。
かっこ悪いってどういうこと?
どういうときにかっこ悪いか?まず真っ先に思いつくのは「人に笑われること」だと思う。
人に笑われるとすごく恥ずかしいし、悔しい思いをしてもう二度とそんな思いをしたくないと思うだろう。
それなら、お笑い芸人さん(特にいじられキャラの芸人さん)はどうなのか?
いつもつっこみ役に馬鹿にされ、ひどい時なんかは池に落とされたりして、はたから見るといじめに近いような扱いをされている。しかもテレビという不特定多数が見ているメディア上でだ。
一般人ならば、そんな恥ずかしい思いをさせられたならば、二度と人前に出られなくなるだろう。
お笑い芸人さんと一般人の決定的な違い
「お笑い芸人さんは、そういう仕事なんだからそんなことされても平気でしょ?」と思うかもしれない。それは違う。
「じゃ、人前で笑われても平気なくらいプライドがないんでしょ?」と思うかもしれない。それは絶対違う。
お笑い芸人さんと、一般人との決定的な違いは何か?それは、
お笑い芸人さんは笑われることに「高いプライド」を持っている
「人に笑われることに関しては誰にも負けないぜ!」というプライドを(それこそ命をかけて)守っている。
プライドを持って、かっこ悪いことをしよう
自分は、今までプライドが高いために、弱音を吐くなどのかっこ悪いことや、恥ずかしいことが出来なかった。でもそれは単に考え方だけの問題だった。
それらはプライドを捨てなくてもできる。お笑い芸人さんを見習って考えを変えるだけ。
「かっこ悪いことをするなら絶対誰にも負けないぜ」と自分の高いプライドを持って実行すればいいだけだ。
これなら高いプライドを捨てる必要も、傷つくことない。
誰にも負けないくらい高いプライドを持ってるんだよね。それならなおさら完璧に「かっこ悪いこと」を、その高いプライドを持って実行できるよね(to 自分)
最後に。同じような境遇の人へ。ストレスから逃げないで
誰しもがプライドを持っていて、中には自分みたいに悩んでいる人がいると思う。でも、プライドが高いことは性格なので変えられない。
だから行動パターンを変える。考え方、受け止め方を変える。
これによって、少しでも同じ境遇の人が改善するきっかけができてくれればうれしいな。
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ブログになら自分の気持ちを書ける理由
昨日のカウンセリングの際、先生から「なぜ個人的な事情を、誰が見ているかわからないブログに書くのか?それによって、より人間関係が悪化する例はたくさんある」というコメントをいただいた。
自分でも、なぜ人には話せなくてブログになら書き込めたのだろうか考えてみた。
自分はプライドが高い
自分はものすごくプライドが高い。かっこ悪いことが大嫌いだ。
つらいこと、悩んでいることを人に話すのが嫌い。
批判されて立場的に弱くなるのも、失敗して笑われるのも嫌い。
わからないところがあっても、何も知らないように思われるので人には聞かない。
とにかく自分の弱いところをさらけ出したくなかった。だってそれって全部めちゃくちゃかっこ悪いんだもん。そんなかっこ悪い自分は、自分のプライドが許さない。
「なんだって自分一人で解決できるから人に頼る必要はない。だってそれがかっこいい自分なんだから」
とにかくプライドが邪魔をして、唯一の身内にすら弱音を吐くようなことは一切しなかった。
限界であることを認識しつつも、かっこいい自分を演じ続けていた
実は休職するずっとずっと以前から、ストレスによって精神的に限界であることは自分でもわかっていた。
しかし「ストレスに負けるのはかっこ悪い」ので無理やり心の奥底に押し込んで、そんなストレスはなかったものにしていた。
そしていつもどおりかっこいい自分を演じて、表面上はまったく問題ないように見せていた。
でも本当は誰かに話したかった
悩みや弱音を誰かに話したい、と思ったこともあった。でもそんなことはプライドが許さないので、一切しない。
でも、吐き出し口のないストレスはたまっていくばかり。結局、その結果が休職へ追い込まれる原因となった。
人には直接話せないことも文章なら伝えることが出来る
カウンセリングの際、ブログの話題が出たことがきっかけで、ブログになら全部自分の思いを吐き出せるのではないか、と思った。
なぜなら自分のプライドというものは「今そこにいる相手に”自分がかっこ悪い”と思われるのが嫌だっただけ」なことに気づいたからだ。
人には直接話せないけど文章なら伝えられることってあるよね。ラブレターなんて、その典型だし。
#って、ここまで書いて「ブログに書き込めた理由ってそうだったのか!」と納得している自分がいる(大笑)
#やっぱり、考えは文章にするのが一番だね。
まぁ、先生が言っていたように悪影響の心配もあるけど、自分を信じてこれからもブログで自分の気持ちを表現していきたいと思っている。
でも、この話はこれで終わりではない
いつも文章で伝えられるわけじゃない。むしろ直接話さなきゃならないことの方が多い。そのためプライドが高いという根本的なところを解決する必要がある。
長くなるので、この続きは【次記事】プライドを持って、かっこ悪いことをしようで書きます。
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ブログによって自分を変えたい
本当に復職できるのだろうか?
休職してから半月が経とうとしている。
リボトリールによって精神的にはかなりの改善を見せていて、これなら職場復帰しても大丈夫なんじゃないか?というくらい気持ち的には楽になっているのだが、それはあくまでも自宅にいるから当然のことだと思う。
でもこの状態はあくまでも薬のおかげで良くなっているだけであって、やっぱり根っこ(性格的なもの)は全然変わっていないのではないか?
そうだとするとせっかく職場に復帰しても、また以前のような精神状態になってしまうのではないか?という不安が、まだぬぐいきれない。
ブログによって行動パターンを変えたい
でもそういう内向的な行動パターンを改善したいという想いからブログを始めたので、なるべくいいことを考えることにして、今はしっかり休養して1日1日を大事にしようと思う。
ちなみに「今日のいいこと」というカテゴリを作ったのもそのためで、なんでもいいから、その日に良かったことを見つけるようにしている。
例えば1日中雨だったら今までの自分なら、嫌な気分が先立っていたのだが「雨には雨なりの景色がありまして」のエントリでも書いたように、悪い状況でもあえて良いことを探すことによって、考えをいい方へ持っていくようにした。これが先生が言っていた「行動パターンを変える」という意味だと思っている。
今日の診察結果について
今日は3回目の診察の日だった。今のところ精神的に安定していることもあって、先生から生活改善に関してのコメントはなかった。
ただ、ブログを始めたことを伝えたところ「ブログは書く側は良くても、読む側の受け取り方によって、相手との関係がさらに悪化する例をたくさん見てきているので、かなりリスキーだ。あまりよろしいことではない」というコメントをいただいた。
しかし自分的にはブログは、今まで身内にすら話さなかった(話せなかった)自分の心の奥底を知ってほしい、という気持ちで書いているので、できることならやめたくはない。
でも、それが先生の言っていた「その文章の良し悪しを決めるのは読む側である」だからなぁ。難しいな。
それでもブログは続けていきたい と思っている
先生の言うことはすごく実感してて、自分もちょっとしたきっかけから炎上したブログをたくさん見ているので、自分でもリスキーであることは理解しているつもりだ。
だからと言って、それを避けてしまうということは、また自分から逃げることにつながるし、他から指摘されることによって自分を改める機会を失ってしまう。
この行く末が、吉と出るか、凶と出るか、誰にもわからない。
ただ、今やれることは自分を信じて、自分の気持ちを精一杯相手に伝える術を学ぶこと。
そのためにブログを続けていきたいと思っている。