マスコミはいつまでも東日本大震災の被災者ばかり特別扱いすんな
千年希望の丘プロジェクト メモリアル樹望式から2週間後の様子
13/6/9(日)のメモリアル樹望式(千年希望の丘プロジェクト「メモリアル樹望式」に行ってきたよ)から2週間が経ち、今の現場の様子がどうなっているのか気になったので写真を撮ってきました。
続きを読むボランティアは偽善か?自己満足か?
東日本大震災の際、自分の住む宮城だけでなく、岩手、福島などに、全国からボランティアの方々が沢山来てくださったことは記憶に新しいところだ。
ただ中には「ボランティアなんて偽善だ」「単なる自己満足だ」と思っている人もいるかもしれない。
しかし、自分はそのどちらでもないと考える。今回は、そのことについて触れてみようと思う。
その前に、話をすすめていく上で誤解のないよう、ボランティアには2つの条件が必要であることをあげておきたい。
- 本人が自ら望んでボランティアに参加すること
- ボランティアをした相手から、自分が心からの感謝を得られること
#補足:
1. が欠けているとボランティアは「偽善」となり
2. が欠けているとボランティアは「自己満足」に終わる
本来、ボランティアとはお互いがWIN-WINの関係になるべきことだと自分は考えている。これについては以下で追々述べていくつもりだ。
まず、実際にボランティアに来てくれた方々は、大変大きい自己犠牲を払って来てくれていることを理解していただきたい。
学校や会社を休み、交通費も自腹なら、宿泊費も自腹。そこまで大きな自己犠牲を払ってまでなぜボランティアとして来てくれるのか?
それは「少しでもいいから相手の力になりたい」という人間の感情がそうさせているのだ。
人は感情で動く生き物だ。
感情次第で人はどんな自己犠牲を払ってでも行動を起こそうとするのだ。
自分の実家では、津波によって床下にたまったヘドロを取り除く作業を、関東地区から来られたボランティアの方々に手伝っていただいた。
実家ではベタ基礎だったためヘドロが床下の地面にしみ込まず、作業前は基礎内部の高さいっぱいまでヘドロがたまっていた状態だった。
例えるなら縦20m×横15m×深さ60cmくらいの大きさのプールにたまったヘドロを想像してもらえると、どのくらいの量だったのか大体想像していただけると思う。
しかし実際はただのプールではなく、家の床下なのだ。
床板は剥がしたが、根太や床束を取り除くわけにはいかないため、それらを避けつつスコップとバケツだけで掻き出す作業がどれだけの重労働か。
あれだけの量のヘドロを身内だけで取り除くことなど到底不可能で、この時ほどボランティアの方々に感謝したことはなかった。それこそ言葉では言い表せないくらいのありがたみを感じた。
しかし重労働の対価として、こちらがボランティアの方々に提供できたものと言えば、せいぜい飲み物や軽い食べ物くらいしかなかった。津波で家財道具一切を流されてしまったため、その程度が精一杯だったからだ。
あとは、作業が終わった後に、最大限の気持ちを込めて「ありがとう」と感謝の言葉を言えただけだった。
それでも、ボランティアの方々は文句の一つも言わず、最後は笑顔で実家を後にし、別の場所へと向かっていった。
関東方面から自腹で交通費を払い、わざわざ宮城にまで来てそんな重労働をしたにも関わらず、金銭や物などの大した対価も得られない。
いくら感情が人を動かすと言っても、どうしてここまでして人はボランティア活動ができるのか?
その感情の原動力となっているものは、ちゃんと存在する。それは、その人がその状況に「共感を覚えた」ことが理由となっているのだ。
東日本大震災では、TVやインターネットなどのメディアを通して、被災地がどれだけ甚大な被害を被ったのか、日本中のみならず世界中に知れわたった。
その被害状況の未曾有の酷さに「共感した」方々が、大きな自己犠牲を払うことになるのを承知の上で、自らすすんでボランティアとして活動を行った。
ボランティアとは人から言われてやれるようなものではなく、自らやろうと思わなければできないことなのだ。そして、その原動力となっているものが「共感」という感情なのだ。
ここで改めて言わせていただく。本物のボランティアは決して偽善で出来るようなものではない、ということを。
ならばボランティアは単なる自己満足なのか?いや、それも違うと自分は考える。
ボランティアの人たちだって、実は対価を求めている。ただし、それは決して金銭や物のことではない。
ボランティアの方々にとって唯一の対価とは「相手からの感謝の気持ち」であり、もっとわかりやすく言えば「相手の笑顔」こそが最高の対価なのだ。
ここまで長々と書いてきたが、実はこれらはこのエントリで本当に述べたかったことの前置きに過ぎない。
今回のエントリで一番いいたいこと。
それは「ボランティアとは誰しもが普段から何気なく行っていて、誰しもがその恩恵を受けて生活している」ということだ。
普段の生活の中でボランティアに相当することは沢山あると思うのだが、それに気づかないだろうか?
特に家庭内での生活などは、まさにそうで金銭や物による対価が得られないことが多いのではないだろうか?
#ここからの例え話は、実際は対象者が限定されるかもしれないことを承知の上で述べるが
旦那さんが仕事から自宅に帰ってくる時間にあわせて、奥さんが食事の用意をしてくれている。あるいは、お風呂が沸かされている、といったことはよくある話だと思う。
奥さんは、そうしておいてくれと旦那さんから頼まれたわけでもなく、それをしておくことによって対価が得られるわけでもないのに、なぜそういうことをしてくれているのか?
それは奥さんが、旦那さんの毎日の仕事での苦労に「共感している」からこそなせることなのだ。これはまさにボランティアそのものだ。
しかし、その旦那さんはそれに対して奥さんに感謝の気持ちを少しでも伝えたことがあるだろうか?
この例えに共感できなかった人は、他の何でもいい、身近なことに置き換えて考えてみてほしい。
もしそれらのことに対して、感謝の気持ちを伝えたことがないのであれば、今からでも遅くはない。
「いつもありがとう」と、この一言にめいっぱい感謝の気持ちを込めて、相手に言うことだ。
自分の気持ちは、言葉にしなくても相手に通じることもあるが、それはあくまでもイレギュラーなことだと思うべきだ。
たとえ伝わっていたとしても、直接伝えてもらった方が無言でいられるより何倍もいいことには、想像に難くないと思う。
それに「そんなの言葉にしなくとも当然伝わっている」と自分は思っていても、実は伝わっていないことだって往々にしてある。
だからこそ、ここであえて自分の気持ちを言葉にして、相手に伝えるべきなのだ。
言葉にすれば「ありがとう」のたった一言だが、気持ちがこもったこの一言は、相手にとっては何にも増して大きな対価となってくれるはずだ。
ボランティアとは、人が相手に対して共感し助けようとする感情があるからこそできることであり、その対価は受けた側から自分に向けての感謝の気持ちである。
このように本来ボランティアとは、される方はもちろんのこと、する方も得られるものがある。つまりお互いがWIN-WINの関係になるべきものなのだ。
これが成り立っている限り、ボランティアは偽善でも自己満足でもない。
人間として最高の奉仕活動と言えるものなのだ。
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千年希望の丘プロジェクト「メモリアル樹望式」に行ってきたよ
今日は千年希望の丘プロジェクト「メモリアル樹望式」の当日。
続きを読むまた一つ思い出の物がなくなってしまった
ここは母校の中学校があった場所だ。
この中学校も津波被害を受け、その後使うことができず放置されていたのだが、被害が酷かったので修繕するより建て直した方が安くすむということで先月取り壊され、今は写真のとおり更地になってしまっている。
新しい校舎が完成するのは14年9月らしい。なので、もう間もなく新築工事が始まるかと思う。
取り壊されたことは知っていたのだが、訪れたのは今回が初めてだった。
予想していたこととはいえ、実際に校舎がなくなってしまった姿を見ると、さすがにショックが大きかった。
今は無きこの中学校に通った3年間にも、いろいろな思い出があった。
部活の練習がきつかったこと、文化祭でいろんな催し物を出したこと、他にもいっぱい思い出が詰まっていた。
その校舎は、今はもうない。
いくら新しい校舎ができて形は元に戻ろうとも、自分にとっては解体されてしまった校舎こそが自分の思い出であり、もうそれは永遠に戻ってこない。
また一つ思い出の物がなくなってしまった。
こちらは津波被害によって壊されてしまった祠だ。
現在は周りは雑草だらけで当時の面影はまったくなく、唯一残っているのはこの瓦礫と化してしまった祠と、写真には写っていないがこのすぐ隣に小さな(と言っても高さは3mくらいあるが)鳥居があるだけだ。
以前はこの祠のそばに公園があって、子どもの頃その公園によく遊びに訪れたものだった。
その公園も取り壊されてしまい、今はもうない。
だが、公園がなくなってからも、ここには何度も訪れている。今回もそうだ。
何度訪れようとも、ここにはこの壊れた祠と鳥居が残っているだけで、自分が遊んだ公園が戻ってくることはないことはわかっている。
それでもなぜ何度も訪れてしまうのか、今まで自分でもわからなかった。
だが今回、中学校の校舎がなくなって初めて、その理由がわかった。
「たとえ物は残っていなくともこの場所には今でも自分の思い出は残っている」
そのことを確認するために無意識に訪れていたのだ、ということを。
だから物理的にこの場所がなくならない限り、自分はこれからもこの場所を訪れ続けることだろう。
そして、そういう場所として、上記の中学校が加わったことは言うまでもない。
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